《03夏トーク 視点》■2■
シンガー・ソングライター 長谷川きよしさん 地域と未来 「小さな町」からの発信
(2003年08月)


県内で面積が一番小さな町に住み、全国で演奏活動を展開するシンガー・ソングライター、長谷川きよしさん(54)=新町=。大ヒットとなったデビュー曲「別れのサンバ」から三十四年、独自の音楽表現と抜群のギターテクニックで今も根強いファンを持つ。その作品は時代を映すともいわれる。地域や時代、子どもたちの未来などについて聞いた。


― 面積四平方キロメートルの小さな町、新町との出合いは人のつながりだったそうですね。

■新町でコンサートをした経験のある山下洋輔さんや浅川マキさんから、この町のことや、主催する若者たち(新町でよい音楽を聞く会)のことを聞いていました。実際に会ってみると本当に楽しい人たちでした。当時、僕は住んでいた東京の家から立ち退きを迫られていた。水と空気の良い所で生まれたので、環境的にも東京は住む所ではないと思って、いろんな所を探し歩いた。でも、好みと予算が折り合わなかった。たまたま新町で会った若者の中に、大工さんがいて相談にのってもらった。「一度、群馬の方も見に来ませんか」ということで、いくつか物件を見ました。その帰りに新町に立ち寄って、ぐるぐる町中を見て回った。そして、この町のサイズが気に入った。


― なぜ、小さな町を選んだのですか。

■町のどこへも歩いて行ける大きさが非常にいい。自分で歩いて、自分の肌で体感できる。その点から新町の大きさがぴったりした。特に自分は車を使わないから、歩くことで体験できるものを大切にしている。住宅街で、地方出身者も多く、排他的でない点も魅力。それに音楽を大切にしている人たちがいた。もともと僕たちは、自然環境だけ求めて山里暮らしする発想がない。自分たちの行動範囲に限れば、ここはもってこいの場所だと思う。
後で言われたことですが、町の人は本当に引っ越してくるとは思っていなかったようです。「時々やってくるだけだろう」と、別荘のように思われていたらしい。でも、最初から住民票も移し、家族で移り住んだ。平成元年です。隣組の会合や葬儀の手伝いなど近所の人たちと、できる限り交流しています。


― 全国的に活動するアーティストにとって、地方の小さな町に住むことはハンディにならないのですか。

■ここを決めた理由の中には、高崎線の駅があり交通の便が良かったこともある。東京でライブを終えた後でも帰ってくることができる。地方公演に行く時でも、家を出て羽田空港経由で、その日のうちに現地に入れる。別に苦にならない。逆に、自然の変化が毎日感じられて敏感になる。音楽づくりに、やわらかさも生まれる。風が梢(こずえ)をゆする音、雨の降る前の空気の感じ、土のにおいなど、自然と一緒に呼吸する感じ。これは新しい要素だと思う。でも、本場の雷のすごさには驚かされました。


― 長谷川さんの曲は時代とともにある。今の時代は、どう映るのでしょうか。

■日本だけではなく、世界全体がどうしてこんなにも争わなければならないのか。何がここまで人間の気持ちをギスギスさせるのか、と考えてしまいます。以前から、物質的に豊かになり、数字や金で価値判断されることの問題点が指摘されてきましたが、今では、その価値観がすべての分野に浸透しています。人間の気持ちが変わってきてしまったようです。
自分の周囲のことだけ考え、必要以上のことをしない。数字に追われる世の中の流れは夢を失わせます。これは他人事ではない。自分たちの子どもたちが、その世の中を生きていくのですから。「もっと夢を持って」と言うのは簡単ですが、夢をどう持って行くのかと考えると、暗澹(あんたん)たる気持ちになります。立ち上がってなんとかしたい。自分にできることをやっていかないと、この流れを止めることはできないと思います。


― 長谷川さんは、団塊の世代に位置する。音楽に対する思いや受け止め方は、時代や世代によって変化しているのでは。

■CDから生まれる音楽の出現は、作り手だけでなく、受け手側にも変化を与え、「生の音楽でなければならない」という考えも変化しています。でも、私のコンサートは生の演奏。その舞台に、これまで暮らしや子育てに追われていた僕と同世代の人たちが戻ってきている。昔、慣れ親しんだものを懐かしむというのが、音楽に戻ったきっかけ。でも、懐かしんだり喜んだりすることだけで済んでしまうのではなく、「今の時代を生きて、曲を作り、歌っている人がいる」ことに関心を持ってもらいたい。それが、音楽とのかかわりを深めることなのですから。


― 子どもたちを取り巻く音楽状況について。

■自分が子どもを持って分かったことですが、子どもたちの周囲には音楽があふれ、身近になっている。例えば携帯電話の着信メロディーなど。その一方で、子どもたちが歌う曲は今流行しているものより昔の歌が多い。教えたわけではないのに、それをよく知っている。親がいいと思う音楽に興味を持ち、共感できる若者も増えている。私たちの世代では考えられなかった不思議な現象。若者が欲しているのは、僕たちが思ってきた「こだわり」を持った音楽に近いものなのではないかと思う。確かに若い人の作品には、愛や人生、生き方など、一見するとメッセージ性の強い言葉が数多く使われている。でも、それが響いてこない。伝わってこない。上滑りしている感じです。


― 長谷川さんの作品は、時に心を揺さぶる激しさがある。そして、「癒やし」の言葉が嫌いだという。その理由は。

■なぜそんなに皆、癒やされたいのか。フォークソング全盛時代、「人々をなごませる音楽」と言った人がいたが、僕は、その考えは、絶対に嫌だった。確かに、僕の歌に癒やされる人もいるだろうが、本当は衝撃を与えたい、人の気持ちを変化させたい。人の心に嵐を吹き起こす音楽を考えていた。すべての音楽が、癒やしになるのはおかしい。まして、ここまで全国的に癒やしが蔓(まん)延する事態はおかしい。現在の社会は、癒やされている暇がないほど厳しい状況に置かれているはずだ。癒やしは、満足感や充足感とは違う。今の人は「楽になればいい」という感じが強い。それには、僕は満足できない。「癒やしをやめよう宣言」をしたいくらいです。


― コンサートで訪れる地方で、多くの発見があるという。

■地方に出かけると人間のエネルギーを感じる。音楽への強い思いを持った人たちが、自分たちの規模にあった取り組みで、少しずつ変化を起こしている。例えば、小さな町だと簡単にコンサートの案内を知らせることができる。変化も起きやすい。僕が一つの材料になって、そのムードをつくり出せる。コンサートは、一つの目的に向かって一緒に時間を過ごすので、ある程度の力になる。それを地方では実感できる。特に東京から離れた所のほうが、純粋に「何かをやりたい」というエネルギーが強い。三十年以上、全国を歩いているが、関東地方の都市は、どうしても東京を見てしまう。その中でも、群馬は政治にしても、文化にしても独自性のエネルギーを感じる。可能性があると思う。


◎インタビューを終えて 穏やかに厳しい指摘

長谷川さんと会う時はいつも緊張する。穏やかな表情から時に厳しい指摘が飛び出す。新町に住んで十四年。一人娘も小・中・高と群馬で育った。なのに、長谷川さんが本県在住と知る人はまだ少ない。「群馬での仕事が少ないのが寂しい」と言う。
昨年、相次いでCDを出し、視覚障害者用ソフトの充実に伴い今夏から公式ホームページも開設した。自宅を事務所に、今後は県内でも積極的に活動を行う予定。
最近では、学校から招かれ、多感な世代へ音楽を通じて訴えることもあるという。「これまでは、僕を呼びたい人、僕の歌を聴きたい人が企画するコンサートを中心にやってきた。これからは、まだ僕を知らない、歌も聴いたことがない人にも働きかけていきたい」と意欲的だ。


【プロフィル】1949年東京生まれ。2歳の時に失明。筑波大学付属盲学校卒。67年、石井好子事務所主催のシャンソンコンクールで入賞。69年に「別れのサンバ」でデビューし大ヒット。シンガー・ソングライターとして多彩な活動を展開。「黒の舟唄」「灰色の瞳」など多くの作品がある。


視点
上毛新聞
2003年8月16日朝刊より